この素晴らしく、くだらない世界に花束を



 

 この街は腐っている。手の施しようがないほど腐りきっている。

 中途半端な高さで立ち並んだビルや家屋に窓ガラスは無く、これから取り付けられる予定もない。もし取り付けられることがあれば、割られるという予定は規定事項だが。

 退廃しきった人々は欲望の赴くまま、かつて犯罪と呼ばれた好意を日常的に行っている。道徳など、路上に無数に転がった空き缶ほどの価値もない。むしろ、物質であるだけ空き缶の方がマシなくらいだ。

 人権なんて言葉は、頭のおかしな宗教団体の唱える絵空事になり果てた。『そいつの靴が欲しかったから』そんな理由で人は殺される。人々は気付いたのだ。人の命など大したものではないのだと。自分に近しい人間以外は、生きるのに必要でない嗜好品にも劣る価値だと。命の価値は平等なんていうのは、余裕のある時代に生まれたたわごとに過ぎないと。所詮価値は周寛によっていくらでも変容するもので、普遍的な価値など単なる幻想にすぎないのだと。

 くだらない。実にくだらない。

 しかし、それこそがこの町の真実。

 そしてこの街に身を置く俺も、腐敗臭が漂うほど腐っているに違いない。

 今日もまた、胸元にナイフを忍ばせて、日もまだ登っていない早朝からカモはいないかと町を練り歩く。

 このナイフが血に染まった事は一度もない。それは俺が優しいからではなく、単に入念な品定めによっておとなしくモノやクイモノを差し出しそうな奴を選んでいるだけで、他意はない。安っぽい正義感なんてガキの間に捨て去った。いざとなれば、俺は迷いなく肉を抉るだろう。

 ギラギラと派手なネオンが、ポツポツと趣味の悪い燈篭のように光り、辺りを照らす。これらが壊されないのは無ければ困るという共通認識があるだけの話だ。そのため、電気とこの明かりだけは破壊されることがない。

 だが、はっきり言って目障りだ。気分が悪くなる。

 嫌気が差して、ネオンを避けるように裏路地に入りこんだ。

「いやぁ! はなして!」

 路地裏に入って最初に届いたのはそんな女の悲鳴で、それに続いて、視覚にも情報が届いた。

 数人の男が女を押さえつけ、組み伏せて服を引き剥がしにかかっていた。

 別段珍しい光景ではない。ただでさえ根本的に男より力の弱い女は狙われやすい。まして若い女となれば、注意していなければすぐに性欲の捌け口としてズタボロにされ、揚句殺されるか、奴隷に近い扱いを受けるかのどちらかだ。この街で女が生き残るには、利口でなければならない。

 何にしても、俺の知ったことではない。助けてやる義理も理由もない。

 無い―――はず……なのだが。

「がはっ!」

 気づけば、俺は男達の頭を蹴り飛ばし、ぼろ布同然となった衣服をかろうじて巻きつけた女の手を掴み、猛然と走りだしていた。

 背後には俺に手を引かれながら困惑する女と、怒号を上げて追いかけてくる男達の姿がある。

 別に偽善めいたヒロイズムに毒されたわけではない。

 ただ、その女が少し俺のタイプだった。ただそれだけの話だ。

 だが、展開だけ見れば、まるでヒロインのピンチに颯爽と現れた主人公その物だ。走りながら、自嘲の笑みがこぼれるのを堪えきれない。

 くだらない。実にくだらない。

 しかし、不思議と昂揚しているのがわかる。際限など無いかの様に高まっていく鼓動は、決して激しい運動のためだけではないはずだ。少なくとも、俺が物語の主人公になる無体な妄想を抱きかけるほどには興奮していた。

 中空を漂うもう一人の俺が冷めた目で見つめている。呆れたように細められた瞳は、「おまえは何をやっているんだ」と無言で訴えているようだった。

 言われなくとも、そんな事は重々承知しているさ。

 だが、疾走する身体を止められない。肌にささる冷えた空気の感触ですら、体温の上昇を止めることができない。

 くだらない社会、日々の中で知らぬ間に堆積していた鬱屈とした感情。それらから解放される新しい幕開けを迎えたような万能感が、あらゆる理性を無視して全身を駆け巡っていた。

 ここから、俺も何かが変わるかも知れない。

 心の片隅に馬鹿みたいな夢想を描いて、俺は疾駆した。

 そうして走り続けるうちに、いつの間にか男達の声は聞こえなくなっていた。

 辿り着いたのは、遥か昔に廃業した、小さな印刷会社のビルの屋上だった。

 夜の闇はいつの間にか腫れて、空には鉛の様な雲が垂れこめていた。動き始めたのが早朝であったから、あれから一時間ほどは経っていることになる。そんなに走っていたつもりはなかったのだが、滝のように流れる汗と、ひどく荒れた呼吸が長時間の逃亡劇を証明していた。

 俺が助けた女は、背後にへたり込み肩で息をしていた。よく倒れずに付いて来れたものだと思う。女だてらにあの速度で足をもつれさせなかったのだから大した体力だ。

 しばしの時間が経ち、いい加減呼吸も整ってきたところで、俺は女にかけるべき言葉がない事に気が付いた。

 欠乏していた酸素が脳内に充足していくが、名台詞の浮かぶ気配はない。

 何しろ、ここ最近人と会話した記憶と言えば、脅迫めいた発言しか思い浮かばない。

 別にこの女をどうこうするつもりなど無かったのだから、このまま立ち去ってもいいのだが、放置してまた襲われれば元の木阿弥だ。かといって半裸同然の女を凝視するわけにもいかず、近くの手すりにもたれかかり、落ち着くまで眼下の街並みを見下ろし待つことにした。

 あるいは、礼を言われるのを待っていたいのかも知れない。

 しばらく目下の道路を眺めていたが、汚れた猫が一匹通っただけで、何の変哲もない退屈な光景が続いていた。もっとも、この街の人間のほとんどが夜行性であり、だからこそ俺も早朝を狙って行動していたのだから、変化がないのは当然と言えた。

「あの、助けてくださって、ありがとうございました」

 だがどうやら、満足できる言葉を聞くまでの暇つぶしにはなったようだ。

 別にこれ以上のロマンスを希望しているわけではない。鼓動が落ち着くのにつれて、俺の突発的似非ヒロイズムも沈静化していた。

 後はどこへなりとも好きなように行けばいい。そう言ってやればいいのかもしれないが、頭のなかほど饒舌ではない俺は、黙って背中を向けておくことしかできない。

 まったく、咄嗟のこととはいえ、馬鹿な事をしたものだ。などと、遅ればせに自己嫌悪していると、

 不意に後ろから手を回され、柔らかな感触が背中に押し付けられた。

「!」

 声にならない声が、驚愕を伴って口から毀れ落ちる。首だけを横に向けると、息がかかる距離に女の顔があり、顎は俺の肩に乗せられていた。

 思わず、息を呑む。

 気だるげな瞳はどこか扇情的に細められ、唇は誘うように蠱惑的な微笑を湛えている。蜜の様に甘い芳香は香水だろうか、混濁していく頭では判然とせず、ふらつきそうになる足を堪えるので精一杯だった。

「これは、そのお礼よ……」

 戸息の様な静かな囁きが耳朶を撫で、細い指が艶めかしく体を這いまわり、蛇のおうな舌が首筋をなぞる。

 このまま、意識を失ってしまいそうだ――。

 そう思った、その矢先。


 

 腹部に未だ感じた事のない激痛を覚え、俺の意識は強制的に覚醒させられた。


 

「あなたみたいな人、初めてよ」

体のあちこちにあった柔らかな感触が消える。

 支えを失った俺は、なす術もなく膝からくずおれ、仰向けに倒れた。

「ホント、あなたみたいにバカで甘っちょろい独りよがりのヒーロー気取り、初めてだわ」

 先ほどの妖しさなど欠片もない、女の嘲笑うような怜悧な声。

 未だ状況を理解できない俺は、激甚の痛み走る腹部にどうにか視線を向けた。

「うっ……ぁっ……?」

 見慣れた黒い柄が腹部に屹立し、それを中心として、赤い液体が鉄の臭気を孕んで湧水のように湧き出し、俺を真紅に染めようと身体を侵食し始めていた。

 いくら何でも、ここまで来て状況が理解できないほど俺も鈍感ではない。わざと婉曲な表現を用いたところで、事実は覆しようもない。

 ようするに、あの女が言うとおり、俺が馬鹿だったのだ。馬鹿みたいなヒロイズムにとらわれて、フェミニストなんだか羞恥心なんだか良く分からない馬鹿みたいな理由で、他人に背を向けた挙句、無防備な背中を馬鹿みたいに刺された。ただ、それだけの事だ。

 本当に、反吐が出るほどくだらない。

 この街でそんな事をしていれば、こうなることはわかりきっていた事のはずなのに。

「ちっ、ロクなもの持ってないね……」

 倒れて呻き声をあげる俺の体を、女の手がまさぐる。先ほどまでの様な繊細な手つきの面影は微塵もなく、ゴミを漁るように荒っぽい、無遠慮で粗暴な物色だった。

「悪いね。だが、あんたがマヌケだったんだ」

 まったく悪びれる様子もなく、女は俺が価値ある物を持っていないとわかると腹に突き立てられたナイフを抜き取り、ポケットに入っていたタバコとライターついでのように奪い、そのままビルの中に姿を消した。

 取り残された俺は、動くこともできず、ただ鉛色の空を見上げていた。

 本当に、くだらない末路だ。

 くだらない街に住むくだらない俺には、これがお似合いの死に様なのかも知れない。

 これこそが、この街の日常なのだ。俺じゃなくたって、代わりに誰かが死んでいる。それもまた、取るに足らないくだらない理由でだ。

 もう、どうでもいい。

 利口なやつが生き残るんだろ? 馬鹿な俺はこのまま野たれ死ねばいいんだろ?

 本当にもう……どうでもいいよ。くだらない……。

 今にも泣き出しそうだった空はいよいよ決壊し、残酷なまでに冷たい雫を浴びせてくる。湧き上がる血液で周りを赤く染めて、俺の体温を奪いながら。

 自らの作る紅い水たまりの中で、顔に降り注ぐ鬱陶しい雨を避けるために、最後の力を振り絞り、体を横向きに変えた。

 最後くらい、煩わしい思いはさせないでくれよ……。

 顔の向いた先には、女の消えて行った屋上の入口がある。安っぽい金属のドアは開け放たれ、風に吹かれて微かに揺れていた。誰かがここを訪れる気配は、まるでない。

 ……おいおい、この期に及んで、誰かが助けてくれるかも知れないとか思ってるのかよ。

この街にそんな酔狂な輩が居るはずがないし、居たとしても、映画のように都合よくここに現れるはずが無い。

 何より、致命傷であることは、刺された俺がよくわかってんだろうが。

 色味を失いつつある顔に嘲笑を浮かべたつもりだったが、おそらく顔の筋肉はちゃんと動いてくれてはいないだろう。

 滑稽な自分を笑うことすら、今の俺には許されなくなっていた。

 そろそろ、眠ってもいいだろうか。痛い思いをする時間はなるべく短い方がいい……。

 そう思い、俺は瞳を閉じ――、

 ようとした。

 ちょうどその時、視界の中、ビルの入口に少女の姿を捉えた。

 少女はおっかなびっくりと言った様子で、及び腰でこちらに近づいてくる。それはまぁ、そうだろう。慣れない者が血まみれの人間を見れば当然の反応だ。この様子だと、したいを見たことがないのかも知れない。

 それもまた、俺にはどうでもいい事だ。

 俺がもう動かないと判断したのか、少女は俺の前に腰を落とし、まじまじと俺を観察し始めた。

 どう見ても、十かそこらの少女だ。取りたてて美人なわけでもないが、さりとて不細工というわけでもない、普通の少女だ。

 こんな所に居たって雨に濡れるだけで何の利益もないから、とっとと立ち去った方がいい。どうせ俺は何も持っていないのだから。こんなボロ服ぐらいならくれてやるが、別に必要ないだろう?

 不敵に笑って言ってやりたかったが、今の俺にもうそんな体力は残されていなかった。

 しかし、少女は俺の心を読んだように、すっくと立ち上がって屋上から出て行った。

 利口な少女だ。ここにいたところで危険が増えるだけなのはわかりきっているんだから。

 きっと、俺と違って長生きできるだろうさ……。

 さすがにもう、眼を開け続けることはできなかった。

 瞼が落ちる。指先の感覚が消失する。呼吸をすることが億劫になる。

 こんな風にして、自分という存在は世界から消えていくのか、漠然とした意識がどうでもいいことを考えている。

 もう何も分からない。冷たいはずの地面に触れている耳だけが、不規則に地を打つ雨音を無駄に精細に捕まえていた。

 本当に、何もかもがくだらない……。

 意識が黒い深淵の中に沈んでいく――。


 

カツ、カツ、カツ、カツ……。


 

 不規則な雨音の中に、異質で規則的な音が混じった。

 これは……なんだ…? 靴……音……?

 微かに残った思考力が、俺の生きる時間を僅かに引き延ばした。

 金属の如く重い瞼を、建て付けの悪い扉をこじ開ける様に無理矢理押し広げて行く。

 前で視界が悪く、焦点の合わない瞳はまともな映像を映し出さない。

 しかし、一つだけわかることがある。

 灰色のぼやけた世界に、ぼんやりと浮かび上がる人影があるという事だ。

 あれは……そうだ……見覚えがある……。

 そう、ついさっき、立ち去ったはずの少女だ。

 何しに、戻って来た? 親にでも命令されて、俺の身ぐるみを剥ぎに来たのか……?

 少女は俺に近づいてくると、先ほどと同じようにしゃがみ込み、何かを俺の眼前に置いて、何も持ち去ろうとはせず、またビルの中に消えて行った。

 ……まったく、せっかく長生きできるとお墨付きをやったってのにな……。

 俺以外にも、こんな馬鹿がいたとは、本当に、思いもしなかったよ。

 俺の眼前に置かれた物。

 それは、雨露に濡れ、今にも枯れてその身を散らそうとしている、白く儚い、一凛の小さな花だった。


 

 自分以外の生死なんて、明日の天気ほども気にしないのが日常のこの街で、他人の死を悼むなんてな……。


 

 真正の馬鹿だ。純粋なんて言葉は間抜けと同意義語になって久しいというのに。


 

 まったく、本当に、くだらない。


 

 けどまぁ、くだらない街に生きたくだらない俺には、過ぎた弔いかも知れないな。


 

 本当に、馬鹿な奴だな……。


 

 あ――、そろそろ俺の時間も残ってないようだ……。


 

 ほんじゃ、あばよ。くだらない日常が繰り返される、くだらない俺の街。



 

 もう一度生まれることがあるんなら、今度はもっと馬鹿の多い街がいいなぁ。




〜BADEND?〜


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